●素粒子と小児性愛と死期
朝日新聞夕刊の一面に、素粒子というコラムがある。
最近といっても、1年ぐらい前からだが、この担当者が変わったのかとてもおもしろい。
最近の俺の流行言葉でいうと、とても「香ばしい」。
どこからか香りが漂ってくるような、そんなかんじなのだ。
スパイシーでウィットが効いているときもあるし、どうやって笑えばいいのかわからんときもあるけれど。
今日はそんな素粒子の、2月7日版の話。
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死は前から来る。
仮釈放男に襲われた坊やはあと6日で満1歳の誕生日を祝うはずだった。「極刑でも許せない」とうめく父親を慰める言葉もない。
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この件についてネット上のみならず、世間では圧倒的に仮釈放男に対する非難の声と警察に対する予防措置不足が取りざたされている。それも確かに問題だし、親が極刑でも許せないという気持ちも当然ようわかる。親のみならず友達であっても同じ気持ちにはなるだろう。
こういう感情はなんとなく日本人的な感じもする。義侠心というか、社会的に排除したいものに対しては徹底的に排除する。村八分という言葉もあったけれど、Minoritiesの排除に関しては集団主義の国民にとっては重い刑だったろうと思う。(民族学・社会学詳しい人にあとはお任せ)。
しかし、だ。
異常者と正常者なんて紙一重じゃないか、と思うのだ。小児性愛という、ある意味社会のタブーである部分に続々と触れる犯罪が増えている。口に出すことさえおぞましいという顔でメディアは、その存在を否定する。一方、「萌える」という言葉が流行るように、その流行の一翼を担っているのもメディアだ。そして、その言葉も世間一般で聞かれるようになっている。
受け入れがたい・存在して欲しくないと思うことに対して、目をつむり「イナイイナイバア」をする事は簡単だ。気分が良くない時に眠るようなものだ。だが、それで問題の根本は解決するだろうか。自覚している小児性愛者が、自分たちの精神をどうにかコントロール出来るようにするプログラムは準備せず、厳罰化で臨むことは正しい対応だろうか。
明日にも自分が小児性愛に興味を持ってしまうかもしれない。
または、社会の方が自分の趣味を干渉するようになってしまうかもしれない。
それを排除するだけでは、視野からなくなるだけで結局何も問題は解決しない。
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素粒子の続き。
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死は後ろからも来る。
ことし還暦を祝う同窓生の宴は暗転。店を出たとたん免停中で飲酒の暴走車に襲われ4人が死亡。
「死期は序でを待たず」と兼好法師は言った。「死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり」
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